三代目とポツダム宣言受諾
「売り家と唐様で書く三代目」
戦後の三代目ターンに日本は来ている。
憲法を改正する事こそが正しい、少子化を食い止める事が正しい、老人介護のために外国人を沢山受け入れることが正しいなどなど・・・・我が国の三代目政治家は自信満々だ。
すなわち、この思い込みこそが三代目の財産と言っても良いのだろう。
理屈ではなくフィーリング、実力より家柄。
まさにエビデンスを示し周囲に同意を求め続ける地道な作業をしなくても良い世代である。余分な初期設定をせずともすぐ作業にかかれるのは、確かに効率が良く楽ちんである。
そして三代目で忘れていけないのは、あのミサイル大好き青年の最高指導者様である。
彼もまた何をもって自分が最高指導者にふさわしいと思っておいでだろうか?
まあ選挙で選ばれればよいというものでもないとは思うが、偉大なるじいちゃんの孫である自分の意見は、国内いや世界の誰が言うことよりも正しいと思っておられるふしがある。
そして「第三代会長」先生もいまだ指導者としての崇拝を集めておられる。
説明なんかいらない、説得など時間の無駄、理由なんてない、だって私は選ばれた人間なのだから。この厚かましさが何のテレもなく表現できる三代目はまさに無敵である。
自分でコツコツ積み上げたこともないので、それを失う不安など感じようがないのだが、民衆はそれを潔しと勝手に思い込み魅了し支持をする。
大政奉還から70余年 真珠湾攻撃を決断・指示した人達がいた。
ポツダム宣言受諾から70余年 今この世代の代表者は何を決断・指示するのだろう
?
ロクなことがあるとは到底思えない。そしていつも犠牲になるのは、付和雷同をしてしまう善良と持ち上げられていた、市民である。
少数の、過激な発言をし彼ら善良な市民に警鐘を鳴らす活動家達はその陰にうずもれ、結局善良な市民と同じ犠牲者となるだろう。
偉大なじいちゃんを持った者は、一度家を無くしてみることが本当は世の中のためにもなるのではないだろうか?
違う人にチャンスを回すために、「児孫のために美田を買わず」をできる人がいてほしいが、そうでなければ「売り家と唐様で書く三代目」さんのほうが、「児孫のために美田を買えず」と残念がり取り合えず夏休みに孫にランドセルをデパートで買い、お盆玉なるわけのわからないこづかいをブームに乗っかり与えるような、三代目じいちゃんよりよっぽど素晴らしいのではないか?
日常の当たり前が実は奇跡かも?
飛行機が荷物を積まないで目的地に飛んじゃたらしい!
乗客は目的地に着いて飛行機から降りた時初めてそのことを聞かされたというニュースを見て、まず最初に思ったことは外国の話じゃないのか?ということだった。
まさか日本でこんなことが起こるなんて、にわかに信じがたいと。
乗客にしてみたら本当に災難と言うほかないだろう。
旅慣れた人は、機内持ち込みサイズのカバンに上手に荷物をまとめ飛行機が到着するとあっという間に颯爽と空港を後にするが、帰省するために搭乗した人々は土産をたくさん預けていた人も少なからずいただろう。
空港側にしてみれば、飛行機が順番に出ていってくれないとそりゃ困ったことになるのもなんとなく理解できる。
多分、外国などはこういう事はよくあることだから、「しゃーないなー」と諦める人も多いだろうが、日本でこういう事が起こるとは・・・。
日頃の当たり前が本当は奇跡に近いことなのだと、思っていたほうが良いのだろう。
スポーツになぜ物語を付け加えるのか?
オリンピックもたけなわである 体操や柔道のメダリストたちに称賛をするのはもっともだが、決まってその家族や今までの過程を物語のように感動秘話として、マスコミが取り上げる。そして競技とは関係ない部分が大きくなっていき、何を思ったか、たまに政治家になる金メダリストが現れたり、道を踏み外しゴシップのネタ元になってまたぞろマスコミの肥料となる者が現れる。
良い成績を残したスポーツマンは必ずしも人格者ではないことくらい、もうみんなよく知っているのにもかかわらずだ。
そもそもスポーツに感動がいるだろうか? もちろん選手はその行為の過程で感動を覚える事があるのは当たり前だろう。しかしそれを観戦している者が目の前で行われている競技そのもの以外の要素の助けを借りて感動することは、かえってスポーツを馬鹿にする行為だと思わないのだろうか?
自分が経験したことのある競技で自分とオリンピアンとを比較しその凄さに感動することは理解できる、しかし例えば体操の鉄棒競技のように、ほとんどの人が大車輪などしたこともないのに、その凄さ大変さが理解できるとは到底思えない。
それ故に競技とはほとんど関連がないヒューマンドラマをマスコミから提示されなければ感動しないのであろう。
そしてそれに選手もいつの間にか便乗し、競技から離れた所での経済活動が主たる活動に変わっていく。
スポーツで人を感動させようなどという考えは全くの心得違いであり、スポーツ観戦でその競技者以外の者が勇気をもらったなどというのは全く不遜である。
その昔、東京大学なんてちょと勉強すれば自分でも入れると豪語した漫才師がいた。
もちろん合格することはなかったが、その後お笑い界の大御所とテレビで持ち上げられそして、数々のゴシップでたたかれ姿を消し、たまにコメントを発表し何とか世間からは忘れられないようにこざかしくしている。彼もまた本来の競技を踏み台として別の場所で注目を集めなければならな程度の競技者だったのだ。
こんなことができたのも、本来の競技以外のことを付け加え経済活動に利用し潤う者や機関があるからだ。そしてそれにまんまと引き込まれる大衆がいるからに他ならない。
この人はスゴイと思えるまでには、思う自分もある程度まで競える力がないと本当の偉大さを理解できないという事をもっと子供に教育するべきである。子どもに夢をみさせるなどということは間違っている。子どもにはまず現実を認識させそのうえでその現実からさらに上に行くにはどうすればよいかを考えさせなければならない。
それでも実際にはなかなか上にはあがれないだろう。しかしそれをしなければ落ちていくだけである。自分の子孫が落ちていくことを受け入れられる人は少ないと思う。
お盆の過ごし方
これからお盆の時期がやって来る。
みんなそれぞれの休みを楽しむのだろうが、自分にはこの期間何をしたらよいのか?とても悩む。
仕事がそれなりにあれば気も紛れるだろうが、仕事がなくなるこの時期はまるでお正月のホームレスのように途方に暮れる。
帰る故郷もなく、一人中途半端な都会の片隅で何をしたらよいのか?
誰かと何かをしてやな思いを隠しながら愛想笑いをして過ごすのか、一人でとても解決などしないような問題をほじくり返して堂々巡りを繰り返し、結局何も解決しないのか?
時間があるということはとても残酷なことだなと思う。
社会との折り合い
部屋にテレビがないのでオリンピックをまだ一度も見ていない。
もちろん甲子園も。でも天皇陛下のお言葉は車の中で少しだけ耳にした。
私は何かのスポーツ競技の選手や関係者ではないので、私がテレビを見なくても結果には全く関係が無い。もちろん政治家でもないので陛下のお言葉に対して、何かして差し上げることも全くできない。
故にこのような情報は私にとってあろうがなかろうが、どっちでもよい存在なのである。私にはネットさえも本当に必要なのかさえ疑わしい。
結局何も社会参加していないものは、情報があっても煩わしいだけで幸せのための道具にはならない。
金メダルを獲れなかった選手に失望する権利など何処にもないのに、それでもやはりなんとなくやな思いが漂う。
陛下はお年なのだからもう少し労わって差し上げるべきだ!そんなおこがましいことだって本当に自分が口に出せるのだろうか?
自分以外の誰かに何か注文をつけるような立派な人間ではない自分は、社会の中でどんな時間をすごし、朽ち果てていけるのだろうか?
憲法九条を守ろう!
交差点の両脇に女性が2人づつで「憲法九条を守ろう!」というプラカードを車道に向かって掲げていた。
とりわけ憲法九条を守っていない人たちがそこを車で通るのだろうか?
近くに自衛隊の基地があるわけでもなく、国会や行政機関があるところでもない、ごく普通の住宅地の交差点である。
少なくともテレビでたまに見る沖縄の米軍基地の前で運動している方より牧歌的な感じが否めない。
大半の他人にとって無意味な行動も、自分が正しいと思えれば行動できるのだ。
ブログ公開と同じことだなと思う。
自分は戦争が起きたとしても、その被害者になり傷つく事があまりリアルに思い浮かべることが今はできないので、今の段階ではどちらでもいいという無責任な立場である、また責任が君にはあると人から言われても大変困る。
あの交差点の反対の角で、「北朝鮮への反撃はもはや専守防衛だ!」というプラカードが掲げてあっても、ふ~んと何事もなく通り過ぎてしまうだろう。
迷いの中でも生きられるのか?
ゴールの設定を何処にするのか、そしてその後また新たなゴールを設定するのか?
とりあえず スタートをする前にゴールが認識できているのか、そうではなくスタートしてからソロソロこの辺をゴールにしようと妥協するのか?
人生の終着点が見えている人はこの世にどれくらいおいでだろうか?
特にあてもなくふらふらと彷徨い歩いているのが本来の人の姿なのだろうか?
目標のない人生も辛いけど、目標に遠く及ばない事を思い知った後、それでも続いてる人生を生きていくのは、それ以上にとても辛いことだと、見えてきた。