スポーツになぜ物語を付け加えるのか?

オリンピックもたけなわである 体操や柔道のメダリストたちに称賛をするのはもっともだが、決まってその家族や今までの過程を物語のように感動秘話として、マスコミが取り上げる。そして競技とは関係ない部分が大きくなっていき、何を思ったか、たまに政治家になる金メダリストが現れたり、道を踏み外しゴシップのネタ元になってまたぞろマスコミの肥料となる者が現れる。

良い成績を残したスポーツマンは必ずしも人格者ではないことくらい、もうみんなよく知っているのにもかかわらずだ。

 

そもそもスポーツに感動がいるだろうか? もちろん選手はその行為の過程で感動を覚える事があるのは当たり前だろう。しかしそれを観戦している者が目の前で行われている競技そのもの以外の要素の助けを借りて感動することは、かえってスポーツを馬鹿にする行為だと思わないのだろうか?

自分が経験したことのある競技で自分とオリンピアンとを比較しその凄さに感動することは理解できる、しかし例えば体操の鉄棒競技のように、ほとんどの人が大車輪などしたこともないのに、その凄さ大変さが理解できるとは到底思えない。

それ故に競技とはほとんど関連がないヒューマンドラマをマスコミから提示されなければ感動しないのであろう。

そしてそれに選手もいつの間にか便乗し、競技から離れた所での経済活動が主たる活動に変わっていく。

 

 

スポーツで人を感動させようなどという考えは全くの心得違いであり、スポーツ観戦でその競技者以外の者が勇気をもらったなどというのは全く不遜である。

 

 

 

その昔、東京大学なんてちょと勉強すれば自分でも入れると豪語した漫才師がいた。

もちろん合格することはなかったが、その後お笑い界の大御所とテレビで持ち上げられそして、数々のゴシップでたたかれ姿を消し、たまにコメントを発表し何とか世間からは忘れられないようにこざかしくしている。彼もまた本来の競技を踏み台として別の場所で注目を集めなければならな程度の競技者だったのだ。

こんなことができたのも、本来の競技以外のことを付け加え経済活動に利用し潤う者や機関があるからだ。そしてそれにまんまと引き込まれる大衆がいるからに他ならない。

 

この人はスゴイと思えるまでには、思う自分もある程度まで競える力がないと本当の偉大さを理解できないという事をもっと子供に教育するべきである。子どもに夢をみさせるなどということは間違っている。子どもにはまず現実を認識させそのうえでその現実からさらに上に行くにはどうすればよいかを考えさせなければならない。

それでも実際にはなかなか上にはあがれないだろう。しかしそれをしなければ落ちていくだけである。自分の子孫が落ちていくことを受け入れられる人は少ないと思う。