ポケモン採集の次は、テロリスト退治?

夏休みに入って初めての土日は、あちこちでポケモン採集の親子連れに遭遇した。

子供にせがまれて嫌々親が付き合っているというよりも、親のほうが楽しそうに眼を輝かせているのは、昆虫採集の光景とまるで同じに見える。

しかし、バーチャルな世界で何かをしても、嗅(きゅう)触の五感のうち 今のところ2つしか満たされない。

人間としてより、幸せや悲しみを強く感じることができるのはあとの3つで、その中でも嗅覚と触覚はより本能に、近い学習で変化することが少ない感覚であると思う。

ゆえに、この2覚こそが親が子供と共に育んでいく大切な感覚ではないかと思う。

夏の臭い、夏の肌を焼く太陽、川の水の冷たさ 夏ならではの体験できる「感」を親子で共有出来れば、視野を広く持てる人間が増えると思うのだが。

 

誰かをやっつけるためのモンスターを収集し、誰かと戦わせるのなら、町中に隠れていテロリストを暴きだし、処刑するゲームがでできてもおかしくない時代にだろう。

高校野球って残酷だと思っていたけど

今まで高校野球ってただ漠然と 残酷だと思っていた

何が残酷なのかと具体的な考えがあまりないままに

昨日初めて地方予選を 野球場で観戦した

そこで目にしたものは お揃いの高そうな刺繍入りのTシャツを着たグランドに立てない野球部員の応援だとか 父兄とみられる人達の奇声に近い応援の声だとか

ベンチやスタンドの高校生もレギュラーと同じ青春期なのに  応援なんか否定して 自分がプレーをしたほうが楽しくないだろうか それが公園での三角ベースでも

応援は 応援部(団)の生徒がするのが本来ではないか ベンチの野球部員は応援がしたくて野球部に所属しているわけではあるまいに 

 

 この日実際にプレーをした高校生の何十倍もの人たちが応援という建前の観戦をしていた

観戦 「戦地の外で」戦いを見ることが そして見られることが またその結果を受け入れなければならないことが 残酷なのか

それ以上に 他者の行いによって 明日の自分のスケジュールが左右されることが 残酷なのか 

いやこの風景が当たり前だと多くの人が支持していることが 残酷なのだ

 

一億総活躍時代なんて来るはずがないと 外野席もない地方球場のスタンドで感じた

 

 

何だか脱力感が多くなって来たので、ブログ作った

とって もけだるい

とにかく日々の楽しみを見つけていかないと やりきれないんだ

昨日は自分用の小さな冷蔵庫を買ったけど 在庫無いので 明日とりに行かなくちゃいけない 

今日は飲み会だから 何とか それで乗り切る